day 18(2) 334Ф列車、タシケント発サラトフ行き
ヌクス駅から、ロシア・サラトフ行きの国際列車に乗り、キャビアの名産地、アストラハンを目指します。実はこの旅では初めての列車での国境越え。
ヌクス駅の駅舎は真新しく、待合室も綺麗。英語、ウズベク語、カラカルパク語の3つの言語で「良い旅を!」と書かれています。駅舎内には飲み物とお菓子の自動販売機があるだけで、売店とかはないので必要なものがあれば駅前のミニマーケットで買い込んでおきましょう。3軒ぐらいあり、カップラーメンや飲み物など一通り売っています。
プラットフォームは2つ。隣のホームにはカザフスタンのベイネウからの列車が定刻通り到着していました。ベイネウまでは、100kmほど西に行ったクングラードから国際列車が出ていますが、今はヌクスからも列車が発着しているようです。
今日乗る334Ф列車はディーゼルの音を響かせながら、定刻より約30分ほど遅れて到着。始発駅のタシケントから24時間走りヌクスに到着です。
西日が差して暑い車内に入ると、自分のベッドのところには先客が。とはいえ、どうやら他の寝台だけど空いてるからこちらに来ていたようで、チケットを示すと、どうぞどうぞごめんね、という感じで出て行きました。
今回の切符。ヌクスからロシアへの国際列車は、週に4本ほどあるのですが、そこそこ人気があるようで当日ではチケットが取れないことが予想されたので、今回は日本でこのチケットだけは手配していきました。手配をお願いしたのは、インツーリスト・ジャパン。インツーリストは、昔のソ連国営旅行社で、ソ連時代は外国人を唯一受け入れるオペレーターでした。今でも旧ソ連諸国最大の規模を誇るそうです。
最初問い合わせた時は、手配は可能で、バウチャー(引換証)を駅で実物の切符に引き換えるという話でした。ところが、ヌクスではバウチャーを切符に交換できないということが手配を始めた後に判明し、色々検討していただいた結果、ロシア国内でバウチャーを切符に引き換え、それを日本に送ってもらうという荒技をやってのけてくれました。流石です!感謝。
実際、当日切符売り場では「満席」ということでした。かなり現地での購入はハードルが高そうです。
車掌のパスポート確認や諸々終わり、そろそろ19時。夕食の時間ということで、食堂車に行くことにしました。メニューはラグマンとプロフ。今日はプロフにしました。ついでにビールを。ぬるいながらこのクソ暑い中、久しぶりのビールはうまい!
食堂車はそんなには混んでおらず、食料を持ち込んでいるか、駅ごとにいる物売りから買って自分のコンパートメントや寝台で食べる人が多いようでしたが、食堂車は気分転換にもなっていい感じ。ちなみに、支払いはロシアルーブルかウズベクスムしか受け付けてもらえず、ドルはダメということでした。プロフとビールで250ルーブル(=約400円)。ペットボトルの水なんかも売ってくれて、50ルーブル(=約80円)。親切だし便利です。
車掌さんから受け取ったシーツを引き、枕カバーをつけて、寝ます。乗った当初は暑くてエアコンないんだとがっかりしましたが、どうやら微妙に入っているぽく、コンパートメントの扉を閉めてじっとしていると、ほのかな冷風が入ってきて、ほどほど快適な感じに。
少し寝入ったところで、夜中の1時過ぎ、ウズベキスタン最後の駅、カラカルパキヤに到着。出国審査を受けます。ほどほど効いていたエアコンは切れて、車内はなかなかの暑さに・・・。車輪をハンマーで叩いて打音検査するコン、カン、コン、と言う音を聞きながら、じっと体を動かさず、じわじわ汗をかきながら暑さに耐えます。
パスポートは集められてスタンプ押されて返ってきます。続いて税関。以前タシケントの空港で賄賂をせびられた記憶がありかなり警戒しましたが、荷物の中をちらっと見たのと、申告書の記載を少し質問されただけで特に何もありませんでした。よかった。
【今日の移動距離】カラカルパキヤまでで440km 【累計】9490km
day 18(1) 再びヌクス、サヴィツキー美術館とミズダカン
ふたたびのヌクス。夏のヌクスは見事なまでの暑さ!気温は38度。日差しが厳しく、日向での体感は45度ぐらいな感じ。日差しを浴びているとクラクラしてきます。
さて、前回は街は歩き回ったものの、大事なところを訪れていませんでした。
それが、イゴール・サヴィツキー記念カラカルパクスタン共和国国立美術館。内部の撮影は高額のお金がかかるのでしていませんが、ソ連時代迫害を受けたロシア・アヴァンギャルドのコレクションが多く残る貴重な美術館として有名です。
かなり設備的には厳しさを感じる状況ながら、コレクションと展示は驚くほどのレベル。
ルイセンコ「雄牛」など、当時体制への痛烈な批判として解釈された絵画を、辺境とも言えるこの地に集め続けたイゴール・サヴィツキー。これらの絵画を描いた画家たちは拘束され、シベリアの強制収容所に送られるなどしていた時代、これだけの規模のコレクションを、一公立美術館のディレクターという立場を活用して集め続けたというのには、本当に驚きを感じます。新館も建てていましたが、こちらは展示などはしていないようです。
ヌクスの人と話をすると、みんな言うのは「美術館は見に行ったか?」。人々に本当に誇りにされている美術館なのだと実感します。
美術館の周りは、真新しい建物がたくさん。この数年でだいぶ開発が進んでいるようです。ただあまりお店も入っている感じがなく閑散としているのが気にかかるところですが、まあ、暑いからかもしれませんね。とにかく、炎暑という言葉がしっくりするほどの日差し。ただ、一方で湿度が低いからか日陰にいるとあまり厳しさを感じません。
少し歩いて中央市場に向かいます。変わっていない雰囲気にちょっと安心。
市場の中で昼食にしようと思ったのですが、あまり良さそうなところがなかったので、5分ほど歩いて見つけたオープンテラスのレストランに。この辺りで一般的な麺、ラグマンはあるかと聞いたところあるというので頼みます。この辺りのラグマンはキルギスやウイグルで食べたようなお汁につかっているのではなく、ナポリタンのパスタのようなラグマンです。これはこれで美味しい。
お腹もいっぱいになったところで、郊外のトルクメニスタンとの国境のそばにあるホジェリという街にあるミズダカンという遺跡に向かいます。タクシー往復と待ち時間入れて、およそ50000スム=約10ドル。
30分ちょっと走ってミズダカン(Mizdakhan)に到着。
ミズダカンは、かつて古代ホレズムで2番目に大きかった都市と言われています。その歴史は紀元前4世紀から続き、14世紀に入ってティムール朝により破壊されるまで続きました。その跡地に墓が建てられるようになり、現在に至ります。
いくつかの廟を見て回ることができます。一部の廟は内部も復元され、再び美しい姿となっています。内部は半地下の構造になっており、外の酷暑が嘘のように涼しく(むしろひんやりとして)、静寂の空間が広がっています。
ここから見えるもう一つの丘には、ギャウル・カラと呼ばれる城塞の跡が見えます。ギャウル・カラとは異教徒の城、という意味で、ゾロアスター教を信じる者=異教徒が作った城ということでのちのイスラム教徒がつけた名前と言われています。
ここには、アダムの墓と伝えられている遺跡もあります。この石が全て崩れ去った時、世界は終焉すると言い伝えられているそうで、それを防ぎ神に祈りを捧げるために石を積む(=再び建設する)風習があるようです。
1時間ほど見て回り、ふたたび、時折馬車も走るのどかな道をヌクスに帰ります。
ヌクス駅に到着。駅は街の中心部からは車で5-6分走ったちょっと離れたところにあります。今日はここからロシア・アストラハンまでカスピ海の北岸を通り列車で向かいます。
day 17(2) 外貨申告は正確に
午後は、一時帰国のため、タシケントに戻ります。砂漠の土地が・・・
緑の大地に変わる頃、タシケントに到着します。ジェット機で1時間半、プロペラ機では2時間半ほどかかります。
まず、向かったのは中央アジアプロフセンター!
中はなかなかそこそこな感じに見えますが、けっこう適当です。
大きな鍋でプロフ(ピラフのような炒めご飯)をいくつも作っていて、好きなのを選んでお金を払って買ってきて先ほどの席で食べます。なかなか盛況。
その後は地下鉄に乗って伝統工芸センターへ。古いメドレセが改装されて、いくつものアトリエになっています。
即売もしていますが、
伝統工芸品の製作もしていて、飽きません。
再び地下鉄に乗り(地下鉄は撮影禁止で写真がありません・・・)、新市街へ。
第二次世界大戦後抑留された日本兵が建てたという「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」を見て・・・、
日も暮れてきたので・・・
タシケント国際空港に戻ってソウル行きのフライトに乗ります。ウズベキスタンには韓国企業が多く進出しており、東京直行便よりもソウルを経由した方がフライトが充実しています。
せっかくなので、出国の際の注意がいくつか。
ウズベキスタンでは、宿泊の際に外国人は宿泊登録が必須で、その登録をした証紙をくれます。これを出国の際に求められる事があります。でも、自分の場合はパラパラとめくられただけで特段何も言われず問題なし。ちなみに、夜行列車の場合は切符を購入した時に窓口でこの紙をくれるのですが、これは単なる領収書ではなく、証紙、いわゆる「レギスト」なので無くさないように。
もう一つ大事なのが、外貨申告。ウズベキスタンはこの外貨申告がものすごく厳重です。1円単位で申告しなければなりません。入国時に申告し、その時の用紙とともに、出国時にも申告しなければなりません。これはかなり要注意です。この時とは別の時に出国時の申告で、少額(合計約5000円程度)の人民元とキルギスソムがあったのですが、書き込む欄も少なかったので申告しなかったところ、税関検査で小部屋に呼ばれ、1対1で検査。嫌な予感。そして、荷物の中からその少額の紙幣が発見されました。
「なぜこの外貨を申告しなかったのか」
「少額だし忘れていた」
「わが国では外貨の無申告持ち出しは少額でも犯罪だ。没収と共に、罰金を科すことになる。聴取をした上で裁判を行わなければならないので、あなたは予定している飛行機に乗ることはできない。」
「忘れていていただけなので、申告を修正したい。没収されるのは構わないが…」
「それはできない・・・」云々が続き、いよいよやってきました。
「これ(USドルの50ドル紙幣)だけ『プレゼント』しないか?」
うーん、もう仕方がない。50ドル札は税関係官のポケットに。どうせなら、両替もできないキルギスソムとかを持っていってくれたらいいのに。
しかし、首都の国際空港といえば国の表玄関。申告しなかったのはこちらの非とはいえ、それがこの有様では何とも残念な感じ。挙句に「今後は気をつけるように」とか一人前に説諭しやがり、非常に胸くそが悪い。おかげでその後は気をつけていますが。皆さんももし行くことがあれば気をつけてくださいね…。
day 17(1) ヌクス
ヌクスの朝。
カラカルパクスタン自治共和国は、ウズベキスタンの中にあって、一定の自治権を与えられた共和国です。ここヌクスは、その首都。もともとは小さな集落でしかなかったヌクスは、ソ連時代にカラカルパク自治共和国が発足すると、その首都として一気に計画都市として整備されたそうです。街は碁盤の目状の広い街路と整然とした建物群でできており、ソ連時代の色を強く残す計画都市です。
街中の足はマルシュルートカ(路線の決まっている乗合タクシー)。とはいえ街自体そんなに大きくないので、歩いて回れる程度の大きさです。
劇場では小学校の発表会のようなものをやっっているみたい。
大学の建物にはウルグ・ベクの像が。ティムール朝の4代目の君主ですが、主に文人としての業績を讃えられている人です。サマルカンドのウルグ・ベク天文台も彼が作らせたものです。
広い道とソ連時代を彷彿とさせる建物たち。
周辺には閑静な住宅街が広がっています。
しばらく歩くと市場が。街中に商店が少ないのもヌクスの特徴で、この中央市場以外にはあまり規模の大きな商店を見つけることはできませんでした。
どうやら、あまりのインフレで札束を持って買い物に行くのもきついので、電子マネー的なものが普及しつつあるようです。
市場の隣には、マルシュルートカのターミナルが。行き先別に場所が割り振られていて、そこそこわかりやすくなっています。
今回の旅はまたここで小休止。なんとも中途半端な場所になってしまいましたが、改めてヌクスから再開します。
【今日の移動距離】なし 【累計】9050km
ところで、ヌクスは経度が東経59度36分。旅をスタートしたウラジオストクが東経131度53分。経度にして72度回ったことになります。ということは、ようやく地球5分の1周したことになります。
今回の旅▼
ここまでのコース▼
day 16 船の墓場、アラル海のかつての港町ムイナクへ
昨日のうちに手配を頼んでおいた車に乗って、ヒヴァの街を朝7時に出発。かつてのアラル海の港町ムイナクを目指します。
まずは車に燃料を補給。ウズベキスタンは天然ガスの産出国で、ここではガソリンより天然ガスのほうが安いため、ほとんどの車は改造してメタンガスやプロパンガスで走っています。この車はプロパンガス。ただ、メタンのほうが人気らしく、メタンガスのガススタンドは長蛇の列でしたがプロパンは閑散。ドライバーは「こっちは空いてるんだよ」と微妙に自慢顔。さっさとガスを入れて先を急ぎます。
アムダリア川を渡ります。かつては浮き橋しかなかったそうですが、今は立派な橋が。大きな川ですが、灌漑によるこの川の水量の低下が世界第4位の大きな湖であったアラル海の縮小を招き、世界最大級とも言われる環境破壊につながったと言われています。
しばらく鉄道線路と平行して道路を走ります。この線路はこの先カラカルパクスタン自治共和国の首都ヌクスを通ってロシアまで続く線路。100両近い貨車を連ねた貨物列車が走ります。東西をつなぐ物流の動脈になっているようです。
反対側の窓の外には、小高い丘の上になにやら輪っかのような遺跡が。この辺り、キジルクム砂漠は、古代ホレズム王国の文明が栄えた地で、これも城塞の一つだと思います。
しばらくするとヌクスの街を通過。
この辺りから白い地面が目立つようになります。雪でもなく、これは塩が析出している地面です。灌漑しても水が蒸発するばかりの土地では、塩だけが残ってその土地は最終的には耕作できなくなってしまいます。
しばらく走り、はや、昼の12時。街道沿いの小さな食堂で昼食休憩です。
昼食が終わればまた荒涼とした大地を走り続けます。
所々わずかな草地では放牧が。ムイナクが近づいてくると水面も見えてきます。
午後1時半頃、ようやくムイナクの街に到着。漁港の町であることを誇るように、カモメや魚を描いた街の看板。街中にも船があったりするものの、あまりにも閑散とした街並み。
さらにそこから道をまっすぐ行った突端は、水面ではなくどこまでも続く砂でしかありません。ここはかつての岸辺。ここには看板があり、これまでのアラル海の衛星写真が飾ってあります。1960年、日本の東北地方と同じぐらいの面積があった世界第4位の大きさを誇る湖であったアラル海は、その主要な水源であったアムダリア川が灌漑事業のために水量が低下したことなどで水位が低下、徐々に縮小していきます。
そして、2009年にはほぼ「消滅」。湖岸はこのムイナクの街から80km近く先に後退してしまったのです。大アラル海の水量はかつての6%にまで減少しているということです。
今、ムイナクには、乾いた空気と風の音が響く中、取り残された船の墓場だけが残っています。
遺棄され朽ち果てた船は、遠く、地平線の先にあるわずかに残された海を見ているのでしょうか。
最大の産業であった漁業を失った街もまるでゴーストタウンのようです。ほとんど人影を見ないこの街の姿は、まるで終末の世界を見るようです。
街の博物館があるということで行きましたが、改装中なのか閉館してしまったのか、廃墟のような状態でした。その中にぽつんと置かれていた漁師の像。彼が持っている魚はもうここにはありません。
再び、来た道を戻り、ウズベキスタンの西部を占める「カラカルパクスタン自治共和国」の唯一と言ってもいい都市であり首都のヌクスに戻ります。
【今日の移動距離】600km 【累計】9050km
day 15 ヒヴァへ
乗車中の列車はタシケントから世界遺産の街ヒヴァの最寄駅、ウルゲンチを経由してそのちょっと先シャヴァトまで行く「アムダリア」号。アラル海に注ぐ大河の名前を冠した長距離列車です。
1等寝台に乗っている客はほとんどいなく、今回はこの個室を1人で気楽に使用。お茶のサービスもありました。
列車はキジルクム砂漠を黙々と走り抜けます。
サマルカンドを夜中の23時に出発した列車は、定刻通り翌日ひる12時にウルゲンチに到着。意外なことながら(と言ったら失礼かもしれませんが)ウズベキスタンの鉄道は結構定刻通りに走ります。中国の鉄道が遅れが常態化しているのに比べ、かなりの正確さです。
ウルゲンチからヒヴァまではトロリーバスがあります。しかし長旅&さっさとヒヴァに向かいたかったので、ここはタクシーを利用。駅を出ればたくさんのタクシーの客引きがいるので、交渉の上で乗り込みます。
ウルゲンチの街を出てしばらく走ると…大きな旧市街(イチャン・カラ)が見えてきます。
この城壁の中が世界遺産のヒヴァの旧市街です。
早速、宿に荷物を置き旧市街の散策に。
入り口にある旧市街の全貌。街のすごいところは、まるでおとぎの国の街のようなこの街に本当に今でも人が住んでおり、人々の営みがあるというところ。
今のヒヴァの街は、建造と破壊を経て、18世紀から19世紀ごろにかけて造られた建造物が多くを占めるとのこと。漫画の「乙嫁語り」に描かれた世界は19世紀ということなのでまさにその頃の風景そのままということなのでしょう。
中心部は舗装が直されていたりと整備が進んでいます。
ヒヴァの最も高いミナレット「イスラーム・ホジャ・メドレセ」のミナレットから街を見渡します。
向こうに見えるのがヒヴァのランドマークの一つ、未完成のミナレット「カルタ・ミナレット」。完成すれば100mもの高さのミナレットが建ったと言われています。
アラクリ・ハン・メドレセ。
ジュマ・モスク。静謐な空間が広がっています。
散歩を続けていると・・・
日も暮れてきて・・・
旧市街で夕食となりました。
夜となり・・・
明日は、消滅しつつあるアラル海の、かつての港町、ムイナクに向かいます。
【昨夜からここまでの移動距離】770km 【累計】8450km
day 14(2) 青の都、サマルカンドで日本語を聞く
サマルカンド駅で声をかけてきたのは地元のサマルカンド国立外国語大学で日本語を専攻している学生でした。まさかウズベキスタンで日本語をしゃべる人間に会うとは思っていませんでした。
アルバイトと会話の実践を兼ねて日本語ガイドをやっている、もしよかったらどうか、今日、最後に満足してくれればガイド料をくれればいい、という話で、普通は警戒するのですが、なぜか大丈夫そうな気がしてお願いしてみました。
学生らしく、駅前からバスに乗り、その後は歩いていきます。
まずは、アミール・ティムール廟(グリ・アミール)。グリ・アミールとはタジク語で「支配者の墓」という意味だそうで、ティムールとその子孫たちが眠る廟。
青の都、にふさわしい美しい外観だけではなく、
内部も金色が織り混ざった美しい青。
再び歩いて向かったのは・・・(後ろ姿は例のアルバイトガイドのブニヨドくん)
そう、サマルカンドのハイライト!レギスタン広場!!青の都、イルラーム世界の宝石、東方の真珠、など数多の名前を持つサマルカンドを代表する、象徴する広場です。600年以上前、13世紀に作られたという3つのメドレセ(イスラームの学校)は、今なお人々の心をつかんで離しません。
ちょうど4月。桜とメドレセ。
ここでは、少々のお金を警備員に渡すと塔に登らせてくれます。暗い階段をひたすら登り、小さい隙間から上がると・・・レギスタン広場だけでなく、サマルカンドの街を見渡す見晴らしが。かつて、この塔から礼拝の時間を知らせるアザーンを唱えていたのかと思うと、何か感慨深いものがあります。
続いて、レギスタン広場から「タシケント通り」を歩いて街の北のほうに向かいます。「タシケント通り」はきれいな店の立ち並ぶサマルカンドのメインストリート。多くの人が遊んだり待ち合わせたり散歩したりと思い思いに過ごしています。
タシケント通りの先にはバザールが。
バザールを抜けていくと、シャーヒズィンダ廟群という、ティムールゆかりの人々のお墓が立ち並ぶ「死者の通り」とも呼ばれる聖地があります。しかし、どれも美しい青。この深い青色。この色を見るためにサマルカンドに来たと言っても過言ではありません。昔々、中学生ぐらいの頃に社会科地図帳で見た青の都、その頃からいつかこの目で見てみたいと思っていました。ついにその思いが実現したことは本当に嬉しいとしか言いようがありません。
続いて、ブニヨドくんの友達のタクシーに乗り(こういうところから少しづつ分け前ももらっているのだと思うのだが)、ウルグベク天文台跡へ。ウルグベク天文台では、何故か日本人と写真を撮りたいということで、地元の中高生ぐらいの学生たちが一緒に写真を撮らせてくれと言ってきます。どうやら、サマルカンドはウズベキスタンでの人気の修学旅行先でもあるようで、全国から人々が集まってくるのだとか。そしてアジア人が珍しいので、一緒に写真を撮りがるのだそう。まあ、パンダと一緒に写真撮るようなものですな。ここだけではなく、この前後、かなりの回数一緒に写真撮ってくれと言われました。彼らのデジカメや携帯電話の中にはアジア人の代表としての僕の写真が入っていることになりました。
次に向かったのはアフラシャブの丘。朝乗った列車の名前の由来のようです。13世紀の早い頃、モンゴル軍に破壊された最初のサマルカンドの街のあったところだそうです。しかし
今、いるのは羊と牛だけ・・・
再び歩いて、バスに乗り、住宅街の中にある紙すき工房へ。8〜9世紀の頃、サマルカンドは中近東一の紙の生産地だったそうで、ここでは当時の製法を再現して、「サマルカンド・ペーパー」のいろいろなペーパーアイテムを作っているとのこと。お茶をいただきながら見学。紙すきがどうというより、この場所自体がなんとも居心地の良い場所…
しばらく居させてもらって、バスで市街に帰ろうとしますが、なかなか来ないので、少し歩きながらバスを待つことになりました。サマルカンドの住宅街。
なかなかワイルドな肉屋。
ようやく来たバスに乗り、そろそろ夕食どきなのでレストランに向かいます。
ガイド代兼ねて、一緒にどうかとブニヨドくんを誘いました。彼の夢としては、日本語を生かして、卒業後はタシケントに出て外務省などに勤めて、行く行くは日本のウズベキスタン大使館か、タシケントの日本大使館で仕事をしたいとのこと。そのために、近いうちに日本への留学も考えているということでした。
彼のガイドはなかなか的確だったので、食事と共に大した額ではありませんが、ガイド料を渡しました。「留学に向けた資金にしたい」と言っていました。
そして夜も更け…。夜のサマルカンド駅から夜行列車に乗り、次の目的地ヒヴァの最寄り、ウルゲンチへ向かいます。実は、この夜行列車、日本からインターネットでロシア国鉄のサイトを通じて予約していたのですが、ロシア国鉄の予約書では、ウズベキスタン国鉄の駅では切符を発券できないとのこと。どうやら、ロシアと旧CIS諸国の予約発券システムは共通で、相互に発券できるので、ロシア国鉄のインターネット予約は旧CIS諸国内の列車も予約&購入できてしまう。だけど、これを有効な切符に引き換えることができるのはロシア国鉄の駅だけだということでした。注意が必要です。
ロシア国鉄の予約書▼そして切符がないとホームにも行けない、それどころか検問を通れず駅の中にも入れないということで、仕方がないので、改めて最も安い開放寝台の切符を買い、改札を抜けた後で、車掌に交渉して予約の1等寝台に変えてもらおうと画策。なんとか成功したのでした。開放寝台のチケット分は損しましたが、せっかくの1等寝台が無駄にならず何より(とはいえ、1973ルーブル=約4000円ですが)。
列車に揺られ、ヒヴァを目指します。